2019も残りわずかとなりながら、全く年末感がない。
街に出ればクリスマスのそれを実感しつつも、やはり普段の生活ではあいも変わらず穏やかに過ごしていた。1人が気楽と言えど冬の寒さが厳しくなるにつれ人恋しくなり、師走は忘年会と称しては集まった。会社では鴨鍋をいただき、大学の友人らとは東京駅の飲み屋をはしごし、ホームアローンを観ながらラザニアとシュトーレンで早めの聖夜を祝って、三茶の飲み屋で白レバーと共に乾杯した。

12月下旬、繁忙期も終わり、ゆったりとする職場で仕事をしながら、今日はイブかとカレンダーに目をやる。志村の命日だ。Apple Musicでは先ほどフジファブリックの「アラカルト」「アラモード」のサブスクが解禁された。これ以上に粋な配信開始があるかと思いながら、昔の茜色の夕日を棒読みで歌う彼の歌声がまた聴きたくなる。ど平日なもんで、今日は帰ったら残りのシュトーレンを食べるか。余裕があれば大掃除でもしよう。
ZAZEN BOYS at 赤坂BLITZ
上京して半年、この6ヶ月弱で、好きだったバンドを見すぎてこのままで大丈夫か?と思うほどライブに行った。東京の醍醐味は流行の最先端がそこにあり、音楽コンテンツも言わずもがなその一つである。こちらに越してきてからの心境の変化といえば1時間半くらいであれば近所に行く感じで外出するようになった。毎週末どこかでなにかが起こっているのに対して、先日までは見逃すまいと日々目を光らせていたのも最近ようやく落ち着いてきた。

気付いたら夏だったように、瞬きをする間に秋が過ぎて、お気に入りのコートをおろすと冬が来た。
12月某所、ナンバーガールのライブを見に行った。志村がいなくなった今、彼らが人生で一番見たいバンドだった。日曜の10時から発売されたチケットは、1分もしないうちに売り切れた。チケットが取れた時はあっけなさすらあった。なにせ私が彼らを知ったのは解散後のことで、札幌でやった解散ライブだってYouTubeでしか見たことがない。そんなんでも彼らに心奪われるのに時間はかからなかったし、本物を見て聴きたいと思った。
夏に再結成の知らせを聞いた時、嬉しさと同時にミッシェルやブッチャーズ、あの頃のフジファブリックはもう見れないんだと再認識したのをよく覚えている。そのあたりからか、大事なものや好きな人たちが突然いなくなってしまう感覚とはこんな感じだろうか、とぼんやり考えていた。

東京に来て、金に糸目をつけずに今まで聴いてきた音楽を聴きに行った。彼らが目の前にいることが、いなくなることを同時に示唆している気がして行く度にもっと見たいと思った。

このご時世、サブスクやSNSで発信していくのが主流となり、誰でも気軽に聴ける環境がどこでも整っている。それでもあの、ライブ前の、照明が暗転しbgmが流れ始めた時の喉が締め付けられるような、細いトンネルに無理やりねじ込まれその先に光が見えるような、あの高揚に勝るものはない。デジタルは所詮情報でしかなく、やはりそこに何かが欠落している。しかし精密に組まれたデジタル情報は、一見それだけで完璧に見えてしまう。Apple Musicで曲を聴いて、YouTubeでPVを見れば、大方彼らのそれを分かった気になる。十分なのだから、それ以上を知ろうとせず、それ以上があっても想像し難い。

恐ろしいことに、生の演奏を見た時初めて、今まで自分が見て聴いてきたものは彼らのほんの一部であり、なにも分かっていなかったことを突きつけられる。近日レコードやカセットが再び息を吹き返し始めているのも、手軽さと引き換えに失われた何かを少しでもかき集めようとしている気がする。
ナンバガライブ当日の日曜は昼前に起き、天気がよかった。穏やかな午後の日差しと風に揺れるカーテンをぼんやり見ながら昼食をとり、豊洲PITまでの電車を確認する。身支度をして、途中自由が丘で買い物をし現地に向かった。すでにオープンした会場は3、40代の男性ですし詰め状態になっている。女性トイレはガラガラ、男性トイレは長蛇の列と、そこには普段の生活とは真逆の世界があった。同時にそれまでどんなファンたちが彼らを追いかけていたか、僅かだが過去の会場を垣間見た気がして、しばらく、ほんの何秒かだったかそのなんでもない光景から想いを馳せた。

ライブ開始の時間が迫っていた。
ドリンクに並んでいる最中、会場内から爆発的な歓声が聞こえ、顔を見合わせる。そうこうしてるうちにデレヴィジョンのMarquee Moonが流れ始めた。列を飛び出して一番近くにあったドアから中へ飛び込む。人を押し除け、ちょうど会場の真ん中くらいの所に来た時、彼らがステージに現れた。例の如く歓声に近い野次がとび、束の間の静寂、僅かに擦れるバスドラとスティックの音、静まりかえる会場。この狭い空間に3000人強が居るとは思えぬほどの不気味な静けさ。皆が唾を飲み込む。そこにベースの人相悪そうな重低音が軽快に始まり、会場両脇から中央へと覆い尽くすかのように歓声が湧き上がる。鉄風だった。

そのあとタッチ、Zegen、EIGHTBEATERと続き中盤あたりに歌われた透明少女は、アンコールの最後にも歌われた。後半客とともにステージで酒をあおった向井の勢いは止まることはなく、MCに小話を挟みながら笑いをとる。この年代の、盛り上がっているかと客に聞かず自分の好きなことをして終わる独特の空気を纏ったスタンスが、めちゃくちゃすきだ。対人ではなく、その場の音を各々が浴び楽しむという表現があっているのかもしれない。アンコールが終わり、彼らがはけた後も再びアンコールを望む拍手が沸き起こった。しかしそれに応えることも姿を現すこともなく、それもまた彼らのスタンスを貫いているようで、清々しかった。
初めて生で聴いたのは、日比谷野音の音漏れだった。蝉たちが暑苦しく鳴く夏の夕暮れに、透明少女の乾いたギターの音がつんざくように鳴り響いたのをよく覚えている。今回は、彼らがステージに立っている姿も見た。

東京に来て、新しい感覚に沢山触れると同時に、昔のことをだんだんと忘れていってしまう気がする。逆に昔を懐かしんであの頃はよかったと言いそうにもなるが、この二つに関してはやはり違うなという気がする。

夏にフジが出したアルバムFAB BEST1が志村の曲だけで構成されていること。続くBEST2には今のボーカル、総くんが作詞作曲した曲が収録され、最後から二番目だけに志村時代の夜明けのBEAT、最後に手紙という曲が入っていること。新たな部分とも向き合いながら、思い出は自分の胸にしっかり抱いて歩いていく彼らの意思がありありと伝わってくる。このアルバムをきっかけに、恥ずかしながら今の彼らと向き合えるようになったと言っても過言ではないほどの衝撃だった。いつだってフジの歌は自分の一番近くにある。

変わっていくことと変わらないでいること、例えばそれは透明に光る少女のように儚く、笑ってサヨナラしたあとに、たまには引っ張り出して眺めてみるのもいいかもしれない。