首を撫でる風が心なしか肌寒くなってきた頃、巷ではもっぱら話題の映画で持ちきりだった。
上映当初は正直全く興味がなかったのだが(バットマンも観ていなかったし)
何気なく予告映像を観てからは、ただのホラーではないということで次の週に早々に仕事を切り上げ
夜のセンター街を抜け、渋谷の映画館に足を運んでいた。以下個人の感想兼ネタバレになる。
まず率直に、観終わったあとに感じたのは「どこまでもコメディであり、どこまでも映画」ということである。
過激な表現ゆえ多くの意見が飛び交う本作の中で、最後に残った感情は清々しい希望や光だった。
他にもアーサーという男が、ジョーカーという別の人間に変化していく際の対比シーンが丁寧に描かれ彼の成長(変化かもしれない)が分かりやすく鮮烈に描写されていた。
冒頭部分、アーサーという男がこれまでの人生、どれほどの苦労をしたか
いかに精神をすり減らしながら生活しているかが、恐らくたった10分にも満たない時間で語られる。
大通りから自宅に続く果てしない階段を登る後ろ姿は、彼が抱える全てを一瞬で理解できるシーンである。
そしてこのシーンと対象的となるのは
映画後半、一張羅でピエロの化粧をした彼が日の光に照らされながら軽やかに踊り、同じ階段を駆け下りるシーン。
同じ階段の上りと下りで「ジョーカーへと変貌した」という間接的な意味合いを示しており、
まさに劇的な復讐劇のはじまり、という言葉がよく似合う映像的にも美しいシーンとなる。
(このシーンは「貧乏なのにその一張羅どこにしまってたん?ワラ」と思ったりした)
そして本作の醍醐味ともなるキーワード「主観」と「妄想」
自分はアーサーが好意を抱いていた同じマンションの彼女に限って「妄想」だったと思っていた。
しかし他の人の話を聞いたりtwitterをみたりすると
「この映画自体が」アーサーという男の「主観」で語られた妄想なのではないかという意見を目にした。
そうだとすると、理不尽に責められた看板の件も、銃を渡して陥れてきた職場の同僚も
撃ち殺したコメディMCにジョーカーと呼んでくれましたよね?と言って忘れられていたことも
アーサー自身が「そうされた」と解釈していただけで
(我々にも映画としてそうみえていた)本当はそうではなかったのかもしれない。
この映画は、妄想癖を持つ主人公によって情報操作された現実を、我々はただ見せられていただけではないか。
上記のような見解がある中で、では本作の真実は?といえば、それは観客それぞれの中にあり
この映画は「主観」という恐ろしさを考えさせるトリガーでしかない。
例えば自分はそんなつもりはなくても受け手からしたらひどいことだった、
という食い違いがこの世には存在するということ。それが全面的に作中に組み込まれている。
重要なのはJOKERという映画の話そのものではなく、それをみて自分がどう捉えたかであり
また他人がどう捉えたかを知り、それを咀嚼することである。
美しいシーンが続く中で、以下特に印象的だったもの
画面いっぱいに級上げしたタイトルの出し方(個人的にかなりよかった)
若き日の母とアーサーの瞳が瓜二つだったこと。(役者的問題や作中の養子問題は置いといて)
妄想だったとはいえ彼女に向けていた持病のそれとは似て非なる自然な笑顔。(これはホアキンがマジですごい)
終盤、映画を締めくくるカウンセラーとの対話シーン。これも冒頭との対比である。
アーサーだった彼はカウンセラーに「誰も俺の話を聞いてくれない」と言っていた。
しかし最後、カウンセラーが聞かせてと言っているにも関わらず、笑いながら
「理解できないさ」と一蹴する。アーサーだった頃とは真逆の意見を言っている彼は
すでにジョーカーであり、多くの悲しみの果てに出した答えである。

そして「誰かの夢を踏みつけにして小躍りする奴もいる」と口ずさみ、一見過去の自分を
貶めた人間のことを歌う「変わり果てた可哀想なアーサー」という印象をつけつつも
その何秒後かにカウンセラーを殺し、血を踏みつけて歩く姿が映し出される。
過去に何を抱えているのか関係なく、誰しもが他人を踏みつける一人になり得ることを強く印象付けている。
最後に、以下に書いた内容が私がこの映画で希望や光を感じた理由となる。
話は少し遡るが、観ている最中「暴動シーンで宗教化し暗転して終わり」というエンドも想像していた。
しかし、最初と同じカウンセラーとのシーンを入れ、血のついた靴で光の方へ歩いて行った後
まるで今までのことが嘘だったかのように2回、病棟のスタッフに追いかけられるシーンがあった。
この 「2回追いかけられる」という繰り返しの描写は「コメディである」ことを強く感じさせ
今までのアーサーの悲しい出来事や、ゴッサムシティで起きた悲惨な暴動全てをチャラにする力があった。
人にはそれぞれ捉え方があると思うが、このシーンを見たある少女が「サザエさんみたいだね」と言ったらしい。
別に前半部分で何も感じなかったという訳ではなく(寧ろ共感性は強い方である)
このサザエさん的シーンによって、JOKERという映画が現代を投影した政治的な意味合いや
人の闇を掻き立てる話などではなく(風刺的な手段として若干はあると思うけど)
どこまでいってもコメディであり、喜劇であり、そして限りなく「映画」なのだ、と強く感じさせる作品だった。